ホントかな??大量の金  金の希少性は嘘

  

  • **ブレトンウッズ*国民党**山下マルコス*勇士たち*WTC**不換通貨(金裏打ちの)

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    •   
    • 世界に記録されている金の100倍の金があり、カバルまたはディープステートからどれだけ盗まれたかを示しています。
      • カバールから集められた金はすべて特定の場所に運ばれ、溶かされ、再形成され、それを追跡できるシリアル番号、スタンプ、デバイスが埋め込まれ、それを所有する国の金地金銀行に運ばれます。 24時間年中無休で追跡されます。引っ掛かることなく動かすことはできません。そのプロセスは、展開するのに5年かかりました。
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        • ⮞もともと世界の金の85%はアジアにあった


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        • わかりやすい最新状況のまとめ




  • 世界の金の埋蔵量と生産量
  •  *山下マルコス**デマ捏造の高橋五郎*




    •   2011年12月14日  ガイアの黄金時代
    • ロスチャイルドと昭和天皇
      ロスシュチャイルド/大英帝国が日本を侵略し、日本を使って中国を追いかけたことが判明した。昭和天皇は1921年にロンドンに行き、国際決済銀行を設立しました。この時、秘密条約が結ばれました。
    • 彼らは、世界のすべての金を没収し、密かに預け入れるという非常に秘密の計画を作成しました。裕仁と彼の日本軍がゴールデンリリーと呼ばれる計画で中国に侵入し、中国から金を略奪しました。最初に、彼らは盗賊と一緒にやって来ました。盗賊は彼らから金を奪い、人々を殺しました。それから日本軍がやって来て、「ああ、あなたは強盗の問題を抱えています。私たちはあなたを救います。」実際には、同じcoinの両面です。金はさまざまな場所に保管されていました。
    • 金は大量に存在する
      国際決済銀行と連邦準備制度が保有する預金には200万トンの金があります。密かに、世界の国々はこのお金を預金しています。4日前の金のスポット価格を計算したところ、実際の金のスポット価格での金額は、1100万兆ドルです。金は希少金属であり世界的にも僅かであるというのは真実ではありません。これが最大の秘密です。
    • 第二次世界大戦に至る過程で、世界の金の多くが略奪されたというものです。彼らが金を所有することを違法にしたので、それは米国で略奪されました。あなたが金を持っていた場合、彼らはあなたの貸金庫からそれを取り出しました。ユダヤ人は彼らの金を奪われました。
    • 1938年には、金が豊富にありました。アジア人が保有していた7隻の巨大な米国戦艦に相当する金が米国に出荷され、連邦準備制度に密かに預けられました。そして、このお金と引き換えに債券が発行されました。
    • ブレトンウッズには、これが1944年のブレトンウッズ協定であり、第二次世界大戦後、この金の没収がすべて完了したという計画があるはずでした。それは1マイルの長さで、ホールの両側にドアがあり、ドアのそれぞれがバスケットボール体育館の大きさの部屋に通じる金の延べ棒がレンガ上に床から天井まで積み上げられていました。
    • ウィキペディアにアクセスすると、世界で公式に認められている12万トンの金があるとのべられている。実際の数は明らかに200万トンを超えています。現在のスポット価格で200万トンの価値を計算すると、1100万兆ドルになります。**21/05/28判明*裏側のシステムに隠された金は400万㌧*
    • 世界のすべての通貨を密かにバックアップする実際の担保です。それがすべて何にも裏打ちされていない不換通貨であるというのは幻想にすぎません。世界の国々は、経済システムを信頼できることを知るためにその担保を必要としていました。フォートノックスには金があり、他の財務省にも金がありますが、実際にある量に比べて極めて少ないです。それは一般の人々のための見せ金のショーです。
    • 明らかにこの計画は彼らを可能にしました–彼らがやったことは、彼らがコンピューターに数字を入力するだけでそれらの数字がお金として現れる不換紙幣システムに誰も立ち上がれないように、世界中の富を没収したことです。
    • 金は地下施設に保管されています。マリアナ海溝の底や東南アジアの他の場所に沈没船があり、この金が保管されています。台湾の島の下には、労働者が手で掘った宝物室があります。それは40マイル×50マイルの幅と7つのテラスの深さです。どうやらこの部屋全体の半分は片側が金で、反対側が中国の貴重な宝物で満たされているようです。
    • 台湾---中国国民党は失われた金の保有者
      1920年代から30年代後半まで、中国はこの黄金の宝物を台湾に絶えず送っていたすべての船を持っていました。このすべての周りに非常に極端な量の秘密があります。中国から7隻の戦艦に相当する金を米国に運びました。連邦準備制度はその担保として彼らに債券を発行しました。その後、そのお金は預金に入れられ、1944年にブレトンウッズで始まった世界経済システムを引き受けるために使用されました。
    • JFK暗殺
      アジア人はそのお金が世界の改善、アジアとアフリカの発展のために使われることを約束されましたが1954年までにそれは起こらなかったことに気づきました。彼らは反抗した。彼らは変化を望んでいました。その変化は最終的に、JFKとインドネシアのスハルト大統領を含む計画につながりました。JFKは実際に大統領命令を出しました。それは11110で、連邦準備制度を短絡させて、彼自身の法令の下で銀で裏付けられた通貨を発行することができるようになる予定でした。それは貴金属ベースの通貨を作成でした。彼はこれをした3日後に暗殺されました。
    • アジア人は1944年にブレトンウッズのために始まった憲章が失効するまで約30年待った。それは1994年に失効しました。彼らは連邦準備制度の変更と世界経済のシステム全体を訴えました。連邦準備制度を運営する人々はノーと言った。
    • これは1998年に出た別の訴訟につながり、中国は1938年に彼らから盗まれた金を取り戻そうとしました。それは60年の期限が切れました。訴訟は敗訴した。言い換えれば、連邦準備制度は、国連のハーグで行われた秘密裁判で敗訴した。そして、彼らがこの訴訟に負けた結果、彼らは和解し、2001年9月12日に返済しなければならないと言われました。金は世界貿易センターWTCの7号館の下に保管されていました。 前日の9月11日、WTCのテロが起きました。
    • 中国人が金を回収したが、それはタングステンであることが判明しました。外側は金で電気メッキされていました。その時以来、中国人は彼らの戦略を変えました。これは実際には中国というのは中国共産党ではありません。台湾とインドネシア、フィリピンなどに逃亡したのは、国民党と呼ばれる蔣介石の下での証言録取党です。したがって、その違いを明確にする必要があります。
    • 連邦準備制度は負けました。彼らはこの金を国民党に返還しました、国民党は曲物でした、国民党はドルと多くのアメリカの企業の崩壊を引き起こした国際的な同盟を組織することによって応えました。それが2008年の金融危機リ-マンショックでした。2008年の金融危機の余波で、彼らはこのTARPのたわごとを作成し、そこで全員を救い出しました。誰も彼らがそうするつもりだとは思っていませんでした。彼らが薄い空気からそれだけのお金を生み出したことに、彼らは完全に驚きました。それは計画を遅らせた。







              
    • ・             
    • なぜ頻繁に大量の金の存在を告知するんでしょうか?
    • 大量の金の存在は逆に金の希少性を薄め、金価格を傷つけ、価値の相対的減少をもたらす矛盾があります。
    • ・  



    Justice
    @Rie52656750
    ·
    トランプ大統領&米軍がヴァチカンから押収した金塊のごく一部です
    Grinning face with smiling eyes
    こんなのがC-17輸送機×400機分程あるそうな
    Dizzy face
    全部が金塊ではなかったみたいですが、総額で3垓5000京円(全世界のGDPの4万年分、1垓円=1万京円=1憶兆円)もの資産をため込んでいたそうです
    Dizzy face

    • ・ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

















フィリピンの隠し金塊  勇者たち
    *
    第十三章勇者たち
    あるとき米国の法廷で、マルコスが大統領だった二十年間に、多量
    の金が積荷としてフィリピンから出ていったことが判明した。その
    金は中央銀行で作られたのでも、バンゲット社のような鉱業所で作
    られたのでもなかった。残った謎は、それがどこへ行ったのか?
    たしかに、マルコスはマニラでロバート・カーティスから盗んだ機
    材を使いジョンソン・マセイ・ケミカル社で再精錬した後、こっそ
    りと船で運びだした。金はマニラを出る前に、ジョンソン・マセイ
    銀行で新しい紙で包みなおされ、それからチューリッヒ、ロンドン
    の金取引所から買い手に運ばれた。
    他の闇の金塊はサウジの王子や中東シンジケート、またはルクセン
    ブルクやリヒテンシュタインを通してヨッロッパの用意周到なグル
    ープに内密に販売された。
    物資運送状を含む書類によると、いくつかの荷物は商業船や飛行機
    に乗せられてアメリカへ行ったことが分かる。一方、残りはCIA
    の飛行機で香港やオーストラリアの米軍基地へ向かった。金はフォ
    ート・ノックスで行き着いたわけでなく、びっくりするほど遠いア
    メリカへ運ばれた。たとえ、金がそこで行き着いたとしても、アメ
    リカ政府はそのことを認めていない。それなら、金塊はどこへ行っ
    たのか?
    CIAや国防総省以外に誰がマルコスを保護し助けていたのだ?
    発見された略奪品から利益を得ていたのは誰だ?
    個人の懐にこの金塊のいくらかを入れるため連邦政府の影響力が使
    われたのだろうか?
    答えはこうだ。マルコスはCIAを飛び越えて、「エンタープライ
    ズ」と呼ばれる闇の組織と関係を持っていた。その組織は民間の諜
    報機関(PIO)と民間の軍事会社(PMF)の一団である。これ
    らの組織はCIAや国防総省の元職員で構成され、彼らは自分たち
    のことを、冷戦の勇者たちと見なしていた。多くのPIOやPMF
    はCIAの大改革がすすんだ一九七〇年代に活動を開始した。彼ら
    はジミー・カーターがCIAをかき回した後の一九八〇年代に急速
    に発展し、やる気十分なメンバーは、別の場所で仕事を続けること
    になった。
    一九七二年の終わり、ジェイムズ・シュレジンジャーは、リチャ
    ード・ヘルムズに代ってCIA長官に就任した。彼は、もう役に立
    たない連中や、ヘルムズの下で暗殺も含め、アメリカの法を侵す活
    動に長期間従事してきた不正工作一派、数百人の工作員を強制的に
    退職させる意向をはっきり示した。CIAがウォーターゲート侵入
    事件や他の国内の侵入事件に絡んでいることが知られるようになっ
    た時、シュレジンジャーは内部調査と、政府に迷惑をかけるかも知
    れないCIAに関わる全ての諜報計画の完全なリストを作成するよ
    う命じた。結果的に六九三頁の「家族の宝石」という報告書となっ
    たが、マングース作戦のような暗殺計画、フェニックス作戦におけ
    る殺人部隊、国家安全保障のために隠された汚い仕事についての情
    報などが漏洩することになった。そして百人以上のCIA職員が首
    になるか早期退職を余儀なくされた。
    フォード大統領はニクソンが辞任してから、CIAの悪事を調査
    するためにロックフェラー委員会を設置したが、「米国やトルーマン
    以後の各大統領の名前を傷つけそうな」事実を明らかにしないよう
    強硬な保守派を配置した。
    2
    フェニックス作戦、ロッキード賄賂スキャンダル、その後のイラ
    ン・コントラ事件に関する議会聴聞会が開かれ、CIAと国防総省
    に対する追加的な粛清が行われることになった。
    こうした追放に加えて、中国との和解についてCIA職員のレ
    イ・クラインとニクソン大統領の間に、ジミー・カーターに対する
    ジョン・シングローブ少将やジョージ・キーガン空軍司令官のよう
    な軍トップとの間に生じたのと同じような争いがあった。カーター
    が大変多くの職業軍人やスパイを排除した時、彼らが個人生活を楽
    しめるために何をやるべきかということまで充分考えたようには思
    えない。どんなローマ皇帝でも軍団を解散するときにそれほど不注
    意であったことはなかったであろう。
    賢明で攻撃的な男たちが、バーチ・ソサエティやムーニィズ、世
    界反共連盟、金持ちの保守派の大物などから資金援助を受けてこっ
    そりと再結集した。
    サンティーの「アンブレラ組織」のように、「エンタープライズ」は
    一九八〇年代の後半にパワーのある影響力のある組織に成長した。
    彼らはすでに民間の市民であったが、こうした男たちは、軍当局者
    やCIAや国軍の長にたいして緊密なつながりを持ち続けた。こう
    した二重構造のため、公的なアメリカ政府の活動と秘密の目的を持
    った活動を厳密に区別することは、殆ど不可能である。このことは、
    これらの個々人の多くが、秘密の活動、詐欺、公共サービスや秘密
    基金の使用に長年従事してきたため、本当に分からなかったのだ。
    エンタープライズのメンバーは、民間企業の合法的な会社の姿であ
    るが、実際は情報機関のための、もっと言えば軍部のための「トロ
    イの木馬」の役割を果たすCIAの秘密企業と仕事をすることに慣
    れていた。事実、PMFのいくつかは、軍司令官や提督や元スパイ
    が政府業務から離れていないかのごとく、給料や年金を引き出し続
    けることが出来るように作られたみせかけにすぎなかった。多くの
    CIA職員は各種のごまかしの下で、数年いや数十年過してきたの
    で、彼らがすでにCIAを辞めたのか単に地下に潜ったのかを、何
    の疑いもなく確定することは難しかった。
    ひとつの完璧な例は、ウィリアム・キャセイである。
    キャセイはOSSのオリジナルメンバーの一人である。彼は法科学
    校を終了後、会計会社で働き、同僚の弁護士であるジョン・ポップ・
    ハウレイと関係を維持した。ジョンはワイルド・ビル・ドノバン法
    律事務所、ドノバン・レジャー・ニュートン・アンド・アービーン
    で働いていた。ドノバンがOSSの長官に就任したとき、キャセイ
    とハウレイは彼の組織、OSSに参加した。キャセイは戦時中のジ
    ョン・シングローブ事件の担当官だった。
    一方。ポール・ヘリウェルはシングローブの直接の上司である。キ
    ャセイはまたアレン・ダレスやジョン・フォスター・ダレスの親密
    な友人であり、レイ・クラインと共に働き、小島少佐に対するサン
    タ・ロマーナの拷問が成果をあげたころ、ランズデールに関係する
    ようになった。このため、キャセイはブラック・イーグルについて
    多くを知る地位についた。ある情報筋は、キャセイは財務知識があ
    るため、ロバートB・ .アンダーソンやジョン・J.マッコイの指導
    のもとにブラック・イーグル・信託を開始するとき、ポール・ヘリ
    ウェルやエドウィン・ポーレイと同じように重要人物の一人となっ
    た。
    戦後、キャセイと友人ハウエルは、彼らのウォール・ストリート法
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    3
    律事務所を設立した。しかし、キャセイを本当に金持ちにしたのは、
    一九五四年のメディア所有会社キャピタル・シティズを立ち上げる
    とき、別の元諜報担当者と関係を持ったことにある。
    多くの調査によれば、この時期、CIAは放送や出版における秘密
    の活動のためのみせかけ会社を設立するため、数百万ドルを注ぎ込
    んだし、キャセイは破綻したメディア会社を獲得し、赤字決算から
    抜け出すためキャピタル・シティズにこれらの資金のいくばくを注
    ぎ込んだといわれている。キャセイは決してCIAを去ったのでは
    なく、ただ金融を扱う蝶々に生まれ変わっただけだった。
    上級のCIA工作員がウォール・ストリートで二重の仕事をしたの
    は初めてではなく、アレン・ダレスは同じことをやった多くの中の
    一人にすぎなかった。
    一九七一年から七三年の間に、キャセイは証券取引委員会(SEC)
    の委員長としてニクソンに任命され、そこでSECの弁護士スタン
    リー・スポーキンと緊密に仕事をした。(スポーキンは後にキャセイ
    にCIAの総合弁護士として指名され、Schlei 事件に関与すること
    になる)。キャセイはニクソン政権の経済担当次官として、また輸出
    入銀行の会長として仕えた。一九七八年、キャセイはマンハッタン
    研究所というシンクタンクを設立したが,そこは多くの元CIA職
    員を抱え、保守派の基金から保守派の作家まで回り、かき集めた金
    を注ぎ込んだ。キャセイがキャピタル・シティズを去り、レーガン
    の大統領の選挙参謀となり、その後レーガン政権のCIA長官にな
    った時、キャピタル・シティズの株を七百五十万ドルも所有する最
    大の株主であったといわれている。彼はずっと大株主であったし、
    CIAの長官であった一九八五年、キャピタル・シティズはABC
    を買収している。
    自らの全職歴が不正の金融活動に巻き込まれた一人の男、キャセイ
    は本書に登場する多くの主要人物と関係をもった。彼のDNAはサ
    ンティーに出会う前からマルコスが終わるまで、あらゆる場所に存
    在している。彼はCIAの民営化を夢見た男の一人で、CIA長官
    としてレーガン大統領にその方法を示した。
    レーガンの最初の行動は、大統領行政命令12333 号に署名すること
    だった。この命令は、CIAや他の政府機関がPMFと契約をする
    ことを公認し、「公認された諜報目的のための契約や調停は、財政支
    援元を明かす必要がない」ことを公認するものだった。このことで
    キャセイはクライン、シングローブ、シャックレー、ランズデール、
    他の多くの追放された者たちとの仕事にもどることになった。そし
    て、彼らの活動をあいまいにしながら、彼らを、少なくとも論理的
    には秘密の領域の人間にしていた。同時にキャセイは、個人的にマ
    ルコス大統領を丸め込む仕事を引き継ぎ、闇の金塊を提供するよう
    圧力をかけ、最終的にはマルコスの失脚と追放、そしてマルコスの
    金塊を陰で操った。
    結局のところ、イラン・コントラ事件ではエンタープライズのメン
    バーと、選挙で選ばれたわけではない国家安全保障会議、国防総省
    やCIAの職員との間で親密な契約があったことを明らかにしてい
    る。
    そうした二重構造は政府にとっては、例えばランズデールがマフィ
    アに対してフィデル・カストロの暗殺を依頼するような時に役に立
    つのである。
    PMFを使い、よその国で暗殺部隊を訓練させることは、ホワイト
    4
    ハウスが暗殺を含む秘密の海外での政治目的を実行することを可能
    にした。また米国とは戦争状態にない国で、代理軍事活動も可能に
    なったのである。それは対外政策の汚い部分を実行するために、外
    科手術用手袋やコンドームをつけて、指紋もDNAも残さないよう
    なものである。役人が委託殺人をうまくやってしまうことが許され
    るだろうか?これは、連続殺人の常習化につながるのではないか?
    これまでに、驚くほど多くの元帥、海軍大将が、国家安全保障会議
    の高級職員がフィリピンでの財宝探しと、マニラからの秘密の金の
    運搬に関与した。この場合の二重構造は海外での政治目的を有利に
    することと、秘密な意図が明らかでない極右の私的軍事組織を豊か
    にし、資金援助をすること両方に使われたのだろう。
    ランズデール、レイ・クライン、そしてジョン・シングローブのよ
    うなエンタープライズの中で良く知られた人物の幾人かは、第二次
    世界大戦中にOSSで仕事を開始し、トルーマンやアイゼンハワー
    政府の時代に急速に出世をしたのだ。
    当時、ナチや日本軍の金は不法活動を立ち上げるために、M資金の
    ように使われた。
    「冷戦主義者」としての彼らの政治観は、蒋介石総統を救出しよう
    とした時に、イランでシャーに権力を持たせた時、スカルノやカス
    トロを排除しようとした時、チリのアジェンデ政権を転覆させる動
    きを助けた時、カンボジアやラオス、ベトナムで不都合な市民を処
    分する自由をもっていた時などに形成された。
    ランズデールは、まだ現役の提督であったが、カストロを殺す活動
    であるマングース作戦を指揮した。ランズデールはケネディ大統領
    により引退を余儀なくされた時、かれは簡単に野にくだり、エンタ
    ープライズの設立委員となって、一九八七年に死ぬまでその中心人
    物であった。
    フェニックス作戦は一九六九年から一九七二年までサイゴンのCI
    A局長で、後に作戦担当のCIA副長官になった、テッド・シャク
    リーに監督されていた。ある情報筋によると、シングローブは軍事
    面でフェニックス作戦に関与していたと主張しているが、本人は強
    く否定している。彼は確かに、シャクリーを含む作戦に関与した多
    くの人間に近いところにいた。ウィリアム・コルビーは上院聴聞会
    で、フェニックス作戦では、共産主義者と疑われた二万人以上のベ
    トナム市民(男・女子・ 供)を殺したと述べた。別の人間は合計を七
    万人以上と言っている。
    議会聴聞会は、フェニックス作戦は総じて非合法活動であると宣言
    した。それでも、フェニックス作戦は一九七五年に米軍がサイゴン
    から撤退するまで、議会の方針に従わないで続けられた。
    「フェニックス作戦は退役軍人ネットワークの創造だった。」と作戦
    の担当であったスタン・フルチャーは言っている。
    「最高レベルの男たちのグループ、つまりコルビーとそうした連中
    は自分たちのことをアラビアのロレンスと考えていた。」
    同様の古い仲間がエル・サルバドルにいて、この時は、レイ・クラ
    インは特別戦争学校で訓練された台湾の将校を含む代理軍を使って
    いた。ジャーナリスト、ダグラス・バレンタインは次のように説明
    する。「フェニックス作戦の全員が一般的に持っていたのは、強圧的
    な政府やコントラのような」反乱グループに武器や補給品を売って、
    彼らが反テロリズムから利益を得ていた。それらの名残が第三世界
    中の焼き尽くされた灰のあとなのだ。
    シングローブとシャクリーは後にCIAを去り、エンタープライズ
    の組織と緊密に一体化した。シングローブは公表されている一九七
    八年のカーター大統領との争いの後、野に下った。シャクリーはカ
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    ーター政権のCIA長官、スタンスフィールド・ターナーとのケン
    カの翌年に野に下った。シングローブとランズデールはその時、ウ
    イリアム・キャセイに率いられ、レーガンの選挙運動に参加した。
    シュレシンジャーによる「家族の宝石」関連の追放と、それに続く
    カーター大統領による人事面の粛清という組み合わせの影響は、そ
    のために思わぬ面倒を招いた。それは極右を地下活動や民間企業に
    追いやり、そこではチェック無しにかなりの程度まで活動が出来た
    し、政府の秘密の資産を自由に使え続けられたという意味において
    である。もし「エンタープライズ」が空軍機、海軍艦、Seals(海軍
    特殊部隊)、特別作戦部隊を使うことを望んだら、それらが誰に気付
    かれることもなく、注文通りに準備される方法があったのだ。
    ニューヨークタイムスのジャーナリスト、セス・ミダンスは信頼で
    きる情報として「シングローブはフィリピンに入ったり出たりして
    いる、彼は、我々に知られないでクラーク基地に着陸することさえ
    出来るのだ」と紹介している。
    我々は、特殊部隊の高官が、シングローブやクラインなどに関係す
    るPMFのグループと一緒に、フィリピン財宝狩りに参加するため
    に短い休暇を取ったことを確認している。このことは政府サービス
    と個人の利益との重大な区分をなくすもので、倫理規範の実践を求
    めることが出来なくなってしまう。
    監視されないと常習的になるものだ。レーガン大統領、ブッシュ大
    統領のもとで、PIOやPMFは増殖し、ホワイトハウスの事実上、
    「秘密の拡大組織」となった。今日まで、エンタープライズのリー
    ダーやPMFの支持者達は。ホワイトハウスは事業家に転じた情報
    員によって運営される私的非合法組織を必要としていると主張して
    いる。それゆえに、PMFは少し名前を挙げるだけでも、南アメリ
    カ、アンゴラ、コロンビア、クロアチア、エリトリア、エチオピア、
    シエラレオネの紛争に関与した。ホワイトハウスに雇われたわけで
    はなく、彼らは政治体制への契約のもとで仕事をしたが、彼らの人
    権の扱いたるやひどいものだ。ビネル社はディック・チェニーのハ
    リバートンが率いるPMFの子会社で、ミャンマーの軍事独裁政権
    と仕事をした時は、地球上で最悪の人権の扱いだった。
    彼らの目的のいくつかは合憲性の面で問題がある。エンタープライ
    ズ組織のメンバーからの手紙を再現してみよう、そこには彼らが秘
    密のFBIスタイルの保安部隊を立ち上げアメリカ国民や「彼らの
    支配化にある」別の産軍複合体を守るため、発見された日本軍の戦
    争略奪品をいかに利用しようとしたかが書いてある。
    これはお金のかかることである。ムーニーズやバーチャーズのよう
    なグループ、そして裕福な個人は必要とされる金額の一部だけしか
    提供しなかった。ひとつのはっきりした解決がサンタ・ロマーナに
    管理されて遊んでいる口座のような現存のブラック・イーグル基金
    を流用することだった。これがサンティーが一九七三年にワシント
    ンヘ連れて行かれ、彼が所有する基金を譲り渡すよう圧力をかけら
    れた理由である。
    翌年サンティーが死んだ時、彼の所有するシティバンクとUBSに
    あるいくつかの莫大な金額の口座が速やかにランズデールの管理下
    に入った理由を説明している。それがどのように使われたかは知ら
    れていない。
    マルコスが一九七〇年代に第2期の探索活動を始め、闇の金を売り
    6
    さばくための援助を必要とした時、マルコスとエンタープライズは
    共通の目標を持った。なぜなら、エンタープライズのメンバーはC
    IAの飛行機、米空軍機、米海軍艦の使用することができたのであ
    る。スービック湾やクラーク空港からマルコスの金が出発した時、
    こうしたことがアメリカ政府により公式に行われたのかエンタープ
    ライズによって秘密に行われたのかはなんとも言えない。十四章で
    はこの二重構造が示す数々のエピソードをお見せしよう。
    次第にマルコスは自分が発見した金の管理、支払い、管理について、
    レーガンのアメリカ政府と主導権争いをしていることに気がついた。
    彼はアメリカ政府を出し抜くためにあらゆる策略を用いた。これが
    彼の失脚につながることになる。
    国際金融当局は、中央銀行が直接民間から金を購入できるように
    決定した時、マルコスはフィリピンで採掘したすべての金が中央銀
    行に直接販売しなければならないと布告した。これでマルコスは自
    分の金のいくらかを売れるようになったし、銀行はその時から、苦
    労なしに金を海外へ移動することができるようになった。
    一九八一年の十一月、フィリピン政府は今回の布告のせいで国際マ
    ーケットにおいて「金保有以来の局所的な過剰」をもたらすだろう
    と言明した。
    三ヶ月以上にわたって、約三十万オンスの金が香港、ニューヨーク、
    ロンドンそしてチューリッヒに船で運ばれた。その金はフィリピン
    政府の金として印がつけられていたが、関与した商業銀行はその金
    での支払いを許されたが、そのことは金が短期間のうちに取引され
    たことを意味している。この特権のために、銀行は1%の手数料を
    支払いそれはマルコスのもとに流れた。
    フィリピン人の元外交官によると、フェルディナンドの自家用機は
    スイスまで何回も往復をした。民間機もまた使用され、それは貨物
    運送状によって証明されている。十二回の極秘輸送がKLM、PA
    L、エアフランス、サベナ機で行われたと言われている。たとえば、
    一九八三年九月には、KLM機のマニラ・チューリッヒ間のフライ
    トで金塊七トンが運ばれている。同時期に別の1.5トンの金塊が
    ロンドンまで運ばれている。その間に、CIAのパイロットと国防
    総省の貨物飛行機は定期的にマルコスの金をオーストラリアと香港
    に空輸した。
    CIAがマルコスの金塊を物理的に移動している間、マルコスはア
    メリカに財産を貯め込むよう仕向けられた。このことは、一九八三
    年から一九八五年のロナルド・リウォルドのホノルル詐欺裁判で明
    らかになり、マルコスの投資財閥会社であるビショップ、ボルドウ
    ィン、リウォルド、デリィンハム&ウォンがCIA資金のための一
    般的なルートだったことを明らかにした。
    その財閥会社はマルコスや他の裕福なフィリピン人がアメリカで不
    正の金を投資するのを助けた。イメルダが後にニューヨークで強請
    の罪で裁判にかけられた時、彼女の弁護人はイメルダと夫マルコス
    はホワイトハウスの友人からそうするよう働きかけられたのだと述
    べた。
    ホノルルでの裁判証言によれば、フィリピンンの億万長者、マルコ
    ス一家の友人であるエンリケ・ゾベルの援助によって、秘密ルート
    がリワォルドによってつくられた。
    リワォルドは、ハワイでポロクラブを経営し、ゾベルは世界一流の
    プレイヤーだった。リワォルドは、ゾベルは自分同様CIAの協力
    者だと証言した。アヤラ・ハワイのような共同事業を通して、彼ら
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    とCIAは、「アメリカへ現金を持ち出したい外国の上級外交官やビ
    ジネスマンの金を保護し、いざと言う時にアメリカで役に立てるの
    だ」。
    ゾベルとの関係は、当時、ジョー・マクミキング大将が、小島少佐
    を拷問したG2のサンタ・ロマーナとランズデール大佐の直属の上
    官だった一九四五年までさかのぼる。その後、金をたっぷり持って、
    マクミキングはドン・エンリケの叔母、メルセデスと結婚し、ゾベ
    ル・アヤラ一族が世界的な金持ちになるのを手伝った。この秘密を
    漏らさない境遇の中で、エンリケ・ゾベルはひとかどの裏切り者で
    ある。UCLAでの勉強した後で、マニラの上流マカティ金融社交
    界を発展させて名前をあげた。
    彼のマルコスファミリーとの関係は複雑で変わりやすいものだった。
    一九八〇年代のはじめには、大統領の後継者の可能性もあると言わ
    れるほどだった。マルコスの旧友エドアルド・コンジャンコはサン
    ミゲル社、つまりサンミゲルビールの醸造会社で、アヤラ・コーポ
    レーションの重要な所有会社のひとつを攻撃的にのっとろうととり
    かかった時、マルコスファミリーはドン・エンリケがごく簡単に屈
    服すると考えた。このことはおばのメルセデスとおじのジョーを大
    変不愉快にさせたので、彼らはゾベルからアヤラ社の支配権を奪い
    彼の最初のいとこにそれを譲った。ドン・エンリケはその後、独自
    の道を歩んだ。
    ゾベルは戦争略奪品を発見しようとするマルコスの骨折りの多くを
    知っていた。一九七五年にレーバーグループの使節ミュータックは
    ゾベルに、ゾベルがペニンシュラホテルを建築中のネルソン飛行場
    の管制塔の下にゴールデン・リリー地下金庫室があると通告した。
    一九七五年六月三日、ミュータックは書いている。「私たちは、古い
    管制塔の内外の敷地に、少なくとも数億ドルの膨大な量の宝石や金
    塊から成る財宝の収集品が埋蔵されていることを証明する重要な地
    図と目撃者を抱える一グループと一緒にいる。我々は前述の敷地が
    明け渡された事は知っている。そして、ある建築工事が当該の敷地
    で完了したかも知れないと危惧している。その場でやると計画した
    どのようなプランも私たちが財宝収集品を探し出し取り戻すまでは
    待たなければならない」と。
    一九八三年、ゾベルはスポーツ花形選手のグレゴリー・アラネタ
    と結婚するイレーネ・マルコスの贅沢な結婚式の後援者だった。グ
    レゴリーはランズデール配下のトップの殺し屋、ナポレオン・バレ
    リアーノの継子だった。イメルダはその結婚式に二千万ドル使った
    と言われている。オーストリアのカート・ワルトハイムから贈られ
    た銀の馬車は、モロッコのハッサン王から贈られた七頭のアラブ種
    の馬に引かれた。お返しにマルコスはオーストリアとモロッコの銀
    行に多額の金を預けた。(この金の証拠は二〇〇一年に表ざたになっ
    たが、それはドイツ政府がイレーヌとその夫をスイスの銀行からド
    イツの銀行へおよそ一三四億ドルを不正に移そうとしたとして告発
    したときだった。)
    このように金をみせびらかすのはマルコス家の習性のようなものだ。
    マルコスはアヤラ基金のような慈善信託を立ち上げられたはずだっ
    たし、イルコス・ノルテの邸宅に隠居できたはずだった。
    アンドリュー・カーネギーはかつて「金持ちで死ぬ奴は馬鹿で死ぬ。」
    といったことがある。マルコスには慈善に費やす時間がなかった。
    なぜならレーガン政権から米国の対外政策の目的のために、もっと
    多くの闇の金を出すよう頻繁に圧力を受けていたからだ。
    マルコスファミリーの情報筋によれば、「ビル・キャセイはフェルデ
    ィナンドに、もしお前がCIA指定の銀行に闇の金を預けることに
    同意するなら、アメリカ政府は永遠に権力の座を維持させるだろう
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    と言った。」ということだ。
    結果として生じたひとつの取引がいわゆる「中国指令」である。マ
    ルコスファミリーの情報筋によれば、一九七二年、ニクソン大統領
    とヘンリー・キッシンジャーは周恩来首相と秘密の取引をした。そ
    れはマルコスが差し出した多量の金と引き換えに、中国が台湾に関
    して米国との争いを避ける取引だったと主張している。我々はその
    政治的詳細を確認できないでいた。しかしながら、長年にわたって
    明るみにでた銀行の書類は、はっきりと多量の金塊がこの時期に中
    国本土の銀行へ移されたことを示している。
    そしてサンタ・ロマーナ、フェルディナンド、イメルダ・マルコス、
    一族のメンバー、そして裕福な仲間はその銀行の金塊口座をもって
    いた。こうした連中はみんな徹底した反共主義者で、彼らが冷戦の
    さなかに中国の銀行へ金塊を移すもっともな理由などないのだ。そ
    うした理由だけでも、この話は十分に真実味がある。
    この情報筋によれば、一九七一年から一九七二年にかけて人民共和
    国の経済はかなりひどい状況で、外貨準備高は底をつき、世界規模
    の石油危機と国内の飢饉でさらに悪化していた。そのすべては正し
    い情報である。共産党政治局へかかる圧力で、党のタカ派は発言力
    を増し、台湾の資産の支配力を得るため台湾侵攻を主張した。
    CIAと国防総省のアナリストは、中国は今にも台湾侵攻を始めそ
    うだ、しかしアメリカはベトナム対策で手いっぱいだとの結論を出
    した。この状況は核戦争につながりかねなかった。ひとつの方法が
    緊張を和らげるために見出される必要があった。CIAのアナリス
    トが提案した新しい解決策は、マルコスから得た闇の金を多量に投
    入し、中国が自国経済を安定化させるのを助け、戦争の圧力を減じ
    るというものだった。もしアメリカが中国を国内危機から救えば、
    フィリピンにも利益をもたらす平和の一時代を招来させることが出
    来る。
    我々の情報筋が言うように、ニクソンとキッシンジャーは秘密裏に、
    マルコスが中国へ金塊で六百八十億㌦(マルコスが持つと彼らが知
    った量)を提供し、五~六年の間に多くの薄片の形でPRC銀行(中
    国国営銀行)に移すように依頼した。これは即金の贈り物ではなか
    ったようだ。贈り物は追加的に香港や中国大都市のいろいろなPR
    C銀行に預金され、金塊は銀行に資産担保として残り、事前に協議
    したいろいろな目的のために割り当てられたのだろう。中国銀行は
    強化され、中国経済は安定化し、共産党政治局の穏健派は勢力を回
    復し、台湾侵攻を主張したタカ派は沈黙をさせただろう。米国基金
    はひとつも関与していない。
    「それはマルコスが発見した日本軍の戦争略奪品のなかで、よい使
    われ方をした唯一のものだ。」と我々の情報筋は言った。
    周恩来はきわめて現実主義者で、その作戦を徹底して推進したと伝
    えられている。マルコスが協力したことは重大で、彼はアメリカ政
    府から十分に支援を受けただろうし、多くの形で報われただろう。
    アメリカ政府はマルコスに、彼とイメルダは北京を公式訪問ができ、
    それが世界中に彼らの名声を高めることになると保証し、取引を気
    に入るようにしたのだ。加えて、中国はフィリピンに対して農作物
    援助を実施してお返しをしたはずだ。
    一九七四年、イメルダと息子のボン・ボンは北京を公式訪問した。
    彼らはびっくりした表情のひ弱な毛沢東を間に挟んで、のぼせて笑
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    いながら写真を撮った、毛沢東が写っている写真の中で最も奇妙な
    一枚である。フェルディナンドは翌年北京を訪れたが、あけすけに
    ものを言う冷戦主義者としてかれの行動は奇妙なものであった。予
    定外の余禄として、イメルダの兄弟コケイ・ロムアルデスは自分の
    知性以上の忠誠心を述べたおかげでフィリピンの中国大使となった。
    我々のマルコス情報筋によれば、中国指令はニクソンの歴史的中
    国訪問と、中国政府との外交関係設立の基盤であったと主張してい
    料によれば、中国指令は一九七二年に始まり、長年にわたって
    続き、マルコスの金塊はPo Sang 銀行と香港の中国銀行、シアメン
    にある他の中国系銀行を含む中国政府所有の銀行に移されたことを
    示している。こうした銀行からの書類は、サンタ・ロマーナ、フェ
    ルディナンド・マルコス、イメルダ・マルコス、他の大変大きな口
    座の存在したことを示している。われわれのCDにはコピーした関
    係書類の中に、金仲買人が金の移転がうまく実行できた時に支払わ
    れるべき手数料を請求する手紙がいくつかある。マルコスファミリ
    ーと金持ちの友人たちは、その後にこうした口座を抱える中国銀行
    の新社屋落成式に参加するため、シアメンを旅行している。シアメ
    ンはアモイに隣接しており、フェルディナンド・マルコスの実父に
    長く関係のあった福建省グループの故郷なのだ。
    二〇〇〇年には更なる証拠が出てきた。それはイメルダがこれら
    の金口座に近づくため銀行職員を買収し、中国人の女を雇った容疑
    で香港政庁から告発された時である。一九九九年の十二月に、香港
    政庁の検察官によれば、中国銀行、HSBCそしてシアメンのPR
    C銀行の口座から二十五億ドルを取り戻すために、イメルダは賞金
    稼ぎに三十五%払うことに同意した。イメルダの弁護士は、彼女は
    貧しい人を助けるために金を工面しようとしただけだと言った。そ
    の後、もうひとつ、秘密のマルコスの金塊口座がスイスのUSBに
    あるというニュースが流れた時、イメルダは「驚くことではないわ、
    昔はお金を持っていたんだから」と嘆いた。
    中国におけるこれらの金塊口座の存在が明らかにされた時、冷た
    い戦争がなお続いていた一九七〇年代のはじめ以来、どのようにし
    て金塊口座が中国にもたらされたのか誰も関心を持たなかった。誰
    も、金塊口座がもたらされた理由とニクソンの一九七二年の北京へ
    の公式訪問とを結び付けなかった。
    一九八〇年代のはじめに、もうひとつおかしな展開があった。フェ
    ルディナンドとイメルダは太平洋戦争後にゴールデン・リリー略奪
    品をもとに開設された特別の秘密口座の存在を知った。
    これは、大阪の三和銀行の十億ドル金塊信託で、マッカーサー元
    帥と裕仁天皇の名前で開設されており、第九章で述べられた通りで
    ある。日本人はそれをマッカーサー基金と呼び、一方米国人はそれ
    を裕仁の在位時代の名前を使って昭和信託と呼んだ。三和銀行は日
    本の古い銀行のひとつで、裕仁は第二次世界大戦前からかなりの量
    の株を所有していた。その信託はロバート・B・アンダーソンによ
    って開設されたが、それは彼がマッカーサーやランズデールとゴー
    ルデン・リリーの財宝の所在地を回ってまもなくのことだと明らか
    になっている。マーカーサーの名前は信託に使われているが、少な
    くとも直接的にはマッカーサーに利益をもたらすよう意図していた
    とは言えない。
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    裕仁に関しては、ジャーナリストで米軍占領時代初期にSCAP
    の記録を読むことが出来たポール・マニングによると、天皇は戦前
    から海外に作った口座に金と通貨で秘密の十億ドルを所有していた。
    天皇は米軍占領中に海外投資からの利益で年に五千万ドルを引き出
    しており、SCAPの財務相談役はこれらの収入を生み出す資産に
    気づいていた。重要なことに、三和銀行はSCAPのマクアット将
    軍の経済科学局によって不問にされた三つの日本の銀行のひとつだ
    った。他のふたつの銀行は東海銀行と第一勧業銀行で、田中クラブ
    によってM資金からの引き出しが増加していることと関係していた。
    今日、三和銀行は「我々は世界で成功してきた。」というスローガン
    とともに世界規模の銀行活動を宣伝している。本当かい。
    フェルディナンドとイメルダは、サンティの死後、その書類を整理
    するなかで、三和銀行にある昭和信託の存在を知った。我々がコピ
    ーした資料によると一九八一年までに昭和信託は四半期ごとに三億
    ドル以上の利益、または年に十億ドル以上の利益を生み出していた。
    銀行オーナーの一人、裕仁天皇は間違いなく有利な利率の権利を有
    していた。(これらを示す資料はマルコスが権力を剥ぎ取られ、フィ
    リピン政府にマラカニアン宮殿が没収された後、マルコスの個人金
    庫で発見された。)
    マルコス一族は、もし自分たちがうまくカードを使えば昭和信託
    を手に入れることが出来たと考えた。少なくとも、自分たちに利子
    支払い分のいくばくかを手に入れられたのにと思った。もし、合同
    信託のニュースが漏れ出たならば、いくつかの理由で日本政府やア
    メリカ政府にとってかなり具合の悪いことになるであろう。
    第一に、裕仁は大変貧しく、生計を維持するためには年俸二万二千
    ドルを与えねばならなかいという見せ掛けを日本政府はなおも維持
    していたし、第二に、日本自由民主党はその時、田中贈収賄を含む
    もうひとつの大きなスキャンダルにもがいていたのである。アメリ
    カ政府にしても、日本はまったく無一文だと繰り返し宣言していた
    ので、一九四五年以来の裕仁・マッカーサー合同信託の存在が開示
    されると、手の込んだやっかいな対策が必要になるであろう。
    交渉人ナティビダッド・M・ファジャルドを含むマルコスチーム
    は、昭和信託の三人の受託者(ひとりの日本人とふたりのアメリカ
    人)を含む日本政府役人と非公式の協議のために東京へ飛んだ。フ
    ァジャルドは数多くの金輸送でマルコスのために行動した仲買人だ
    った。東京へのファジャルドの旅はロナルド・レーガン一期目の大
    統領就任の間に発生した。レーガンはマルコス家の重要な友人だっ
    た。レーガンと妻ナンシーは一九七〇年、マニラのイメルダ文化セ
    ンターの開館式にニクソンの個人的代表として参加するため、初め
    てフィリピンへ行った。それがマルコスとレーガンがお互いにたた
    えあう長い友情の始まりだった。
    ファジャルドとそのチームは東京に着いた時はじめて、彼らの東
    京訪問の真の目的を明らかにした。簡単に言うならば、マルコス家
    は、フィリピンのための財政支援策として偽装した膨大な支払いを
    受け取る代わりに、昭和信託について沈黙を守ることを申し出たの
    だ。彼らは信託からの四半期分の利息をマルコス家に譲るべきだと
    要求した。
    これは強請のごときしろものだ。日本政府は大変驚いて、ファジ
    ャルドと彼の連れを武装警備のもとで日本滞在中、都ホテルの部屋
    にずっと隔離した。そのせいで、いつも彼らは自分の部屋で食事を
    取らねばならなかった。
    ファジャルドが東京からイメルダに送った一九八一年二月二二日
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    づけの手紙には、「日本のフィリピン向けの財政援助は、マッカーサ
    ーが皇室に対し、信託の形で残したドル基金(原文ママ)からの蓄
    積した利息収入で構成されます。・・・・・我々は日本大蔵省の許可
    のもとでいかにして金を香港へ持ち出すかの手段を考案し・・・・
    フィリピンで大事業をなしている日本企業に対し融資されます。日
    本政府はその企業にカワサキがふさわしいと判断したことが明らか
    になるでしょう。皇族の手のもとにある信託金は、すでに大阪の三
    和銀行へ預金されており、香港への振替手配が整っています。これ
    を実施するため、三〇年間、無利子でカワサキへ融資されることが
    明らかにされるでしょう。フィリピンのファーストレディのための
    大型経済発展計画を財政支援する金を出すのはカワサキになるでし
    ょう」と書かれている。
    ファジャルドにより交渉された取引が行われたかどうかは分から
    ない。しかし、銀行の書類によれば、今日でも三和銀行香港支店に
    多くのマルコスの口座が存在している。
    日本政府は多分アメリカ政府にこの脅しについて訴え、そのこと
    が直後のマルコスの失脚につながったはずである。しかし、アメリ
    カ政府が最終的にマルコスに見切りをつけた主要な理由は、レーガ
    ンによる『虹のドル』戦略の失敗にある。
    レーガン大統領は政権のはじめに、一九七一年にニクソンにより
    廃止された金本位制にもどり、『虹のドル』と呼ばれる金本位の新し
    い通貨を導入すると宣言した。ニクソンの決断以来の一〇年間で、
    米国はひどいインフレーション、不況、そして高金利の時代を経験
    した。レーガンの対策は金本位制に戻ることだった。財務長官ドナ
    ルド・リーガンはこの政策が「途方もない好況」をもたらすだろう
    と言った。
    大量のドル紙幣が世界に循環していたので、もしその紙幣が金に
    兌換できるようになれば一九三三年以前の事態のように、アメリカ
    政府は金塊の需要に振り回されるはずだ。解決策は2段階方式だっ
    た。『虹のドル』は徐々に現行のドル紙幣と置き換えたとしても、一
    般大衆は『虹のドル』を金に換えることが出来なくする。『虹のドル』
    は中央銀行に保持されたときだけ、金に換るというのが『虹のドル』
    の特別な解決策となるだろう。
    この政策を実行するために、アメリカは、金価格を操作できるに
    足る大量な金の備蓄を必要とする。金価格があまりにも下落したな
    ら、アメリカ政府は通貨価値を安定させるために金を買えばよい。
    もし金価格が高騰したなら、中央銀行は政府からの金塊を必要とし、
    政府は市場へ金塊を放出することで価格の高騰を抑制するだろう。
    これがレーガン政権の主要なプランだった。
    『虹のドル』制度に変更することは、ヘロインやコカインの麻薬
    ボスのように不正な現金を蓄えている連中が古い通貨を新しい通貨
    に換えなくてはならず、多くの金が隠匿場所から出てくるというこ
    とを意味した。このことで連邦政府の赤字を減少させることになる
    だろう。
    レーガン大統領は非公式にマルコスへ『虹のドル』を支えるため、
    闇の金の貯蔵分を貸してくれるよう頼んだ。いつものように、彼は
    金を貸すにあたり手数料をレーガンに請求することができた。マル
    コスにとって不幸だったのは、彼が要求した手数料がアメリカ政府
    が公正と考える以上に高かったことだ。
    当時ホワイトハウス職員だった人物を含む我々の情報筋によると、
    レーガンは古い友人が自分を失望させたことを嘆いたそうだ。
    昭和信託について日本政府を恐喝した当時の試みを考えても、レ
    ーガンのアドバイザー、特にキャセイはマルコスはやりすぎたと唱
    えた。
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    マルコスを退陣させ、その過程で彼が貯めこんでいた多量の金塊を
    剥奪する時機が来ていた。
    キャセイは即座に行動に移った。その後数ヶ月の間に、国民のパワ
    ーはマニラの道路にあふれ、群集はマルコスの退陣を要求した。
    民衆の抗議の声が通りにあふれたとき、キャセイはリーガン財務
    長官、CIAのエコノミストのフランクヒ・ グドン教授弁、 護士ロー
    レンスク・ リーガーとともにマニラに飛んだと言われている。
    マルコス側近によれば、会談の目的はフェルディナンドを説得して
    七万三千トンの金を譲るようにすることだった。キャセイとリーガ
    ンはマルコスに最後のチャンスを示していた。リーガンはマルコス
    に、米国債務証書で八〇%、現金で二〇%と引き換えに金を譲渡す
    る署名をするよう繰り返し説得した。マルコスは終末が近いと感じ
    ながら、現金で八〇%、債務証書は二〇%だけにするよう要求した。
    押し問答が無駄だとはっきりした時、ホグドン教授はマルコスに、
    「二週間以内」に権力の座から降ろされるだろうと通告したと言わ
    れている。実際、数週間の後、マルコスはハワイで事実上自宅軟禁
    状態だったのである。
    同じマルコスの側近によると、大詰めでの次の動きはキャセイ、
    リーガン、ヒグドンとの会談数日後にあり、三者委員会の使者が、
    マルコスに地球開発基金に対して金塊で五百四十億ドルを提供する
    ことを求める内密の要求書を手渡した。
    その場に居合わせていた我々の情報筋によると、マルコスは文体が
    華麗なその文書を一瞥し、軽蔑したように発送済書類入れの中に放
    り投げたと言うことだ。特使は急いでマカティにある三人委員会の
    事務所にもどり報告した。
    三日後、マルコスはレーガン大統領の仲介者、ネバダ州上院議員
    ポール・ラグゾールトから最終提案を与えられた。その時までマル
    コスはマラカニアン宮殿で事実上立てこもり状態だった。狼瘡をわ
    ずらい腎臓と肝臓が衰えた重病の男、マルコスはあきらめて米軍ヘ
    リコプターで救出される見返りに自分の「金」を剥奪された。その
    晩、荷船がパシグ川を宮廷まで引かれ宮殿の地下倉庫、大統領保安
    部隊の敷地や宮殿に隣接したビルの地下倉庫からから多量の金棒が
    積み込まれた。この作業は一晩中続けられ、多くの人々に目撃され
    た。
    明け方、荷を積んだ船はマニラ湾そして、最終目的地のスービック
    湾の海軍基地まで引かれた。その基地で金は最初に軍用品地下倉庫
    に保管され、その後アメリカ海軍の大型船に乗せられたと言われて
    いる。
    (アメリカ政府は一九五〇年以来公式に金の在庫を監査していない
    ので、その後に金に対して何が起こったかを述べるのは難しい。た
    だ、アメリカ政府は八千トンの金を所有していることは認めてい
    る。)
    その晩、アメリカ陸軍のヘリコプターがマラカニアン宮殿の庭を
    急襲し、マルコスファミリーとその取り巻きを積み込んだ。
    マルコスたちが驚いたのは、マラカニアン宮殿からイルコス・ノ
    ルテにある彼らの本拠地に連れて行かれたのではなかったことであ
    る。彼らはイルコス・ノルテで自分たちの領地のための防御物を築
    く計画だった。彼らはハワイの軟禁所に連れて行かれた。「我々は救
    出されたのではなく、誘拐されたのだわ」とイメルダは噛み付くよ
    うに言った。
    イメルダはホノルルに彼らが到着した時、持っていた数十億ドル
    の価値のある金証明書をアメリカの税関職員が押収したと言った。
    税関が用意した公式リストにはその証明書は載っていなかった。そ
    の後、イメルダはアメリカ財務省が証明書を押収したことを認めた
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    と主張した。
    しかし、専門家は証明書のすべては偽造であると決定した。我々が
    見てきたように、金の証明書を偽造品だと非難することは、本物で
    あったとしても、決まりきった手順だろう。これが押収品に対して
    一般的に行われるやり方である。
    このような事情を考えると、今もしくは将来に銀行が金持たちから
    預かった金証書を偽物だと告げる大きな可能性があるにも拘らず、
    金持ちが銀行に金を預け続けるのは不思議に思える。
    そんな詐欺の気配があるなかで、財務省が押収された金の証明書に
    対してどうしたかを詳しく知ることは興味深いことである。
    リーガン財務長官は確かに多くを語っていない。彼とCIA長官
    キャセイは、イラン・コントラ時に資金洗浄と銃密輸で果たした役
    割で不評を招き辞任せねばならなかった。
    イラン・コントラ事件でキャセイが果たした役割を見れば、外国政
    府を操作したり、アメリカ国内の右翼民兵に資金援助をするため、
    日本の略奪品を不法に使った事件でも彼が任務を果たしたことは十
    分認識できるものだ。
    マルコス家がハワイに到着したときに、彼らから金品をまきあげ
    たり、彼らの金証明書を押収したりしたことは十分に価値のあるこ
    とであったが、多くの疑問がうやむやのままである。
    はじめに、どうしてイメルダとマルコスは自分たちの闇の金を他
    人に管理されている銀行に移そうと主張したのか。全てを押収され
    たらどうするつもりだったのか?
    ハワイで、ふたりは苦労して海外に隠した金塊を引き出すことが出
    来ないことを理解した。腐敗し失脚した独裁者がやったように、金
    塊が不正に取得されたという口実で彼らの口座は封鎖された。
    これがアメリカ政府の態度であったが、アメリカは三〇年以上マ
    ルコスと同盟を結んでいたのだ。スイス政府はマルコスがスイスの
    銀行にいくばくかの金を所有していることを簡単に否定して、より
    現実的な態度をとった。世界中の銀行家たちはマルコスの口座につ
    いては何も知らないと言明した。
    ホノルルで彼らがもはや勘定を払うことが出来なかった時に、フ
    ェルディナンドは旧友ドン・エンリケ・ゾベルに危機を乗り切るた
    めに二億五千万ドルの借金を頼んだ。ゾベルによると、マルコスは
    借金の返済能力があることを示すためにゾベルに金証明書を見せた。
    その証明書はアメリカ税関に押収されていなかったものだった。こ
    れらもまた後になって、アメリカ財務省によっていかさまであると
    宣告された。
    数ヵ月後、ますます、むくんで黄疸症状の進んだマルコスは、自
    分と友人に大量のマクドナルド・バーガーとポテトフライを買いに
    やらせた。食事のさなか、マルコスはビッグ・マックをのどを詰ま
    らせ、ひどく咳き込んだ。翌朝、一九八九年一月一五日、彼は肺の
    虚脱のためホノルル・セント・フランシス・メディカルセンターに
    入院し、同九月の彼の死まで、生命維持装置をつけたままだった。
    そんなふうに、アメリカ政府の歴史の中でもっとも腐敗した関係の
    ひとつが終わった。もしくはそのように思われた。
    サンティーは死んだ。マルコスも死んだ。一九八七年の五月にキ
    ャセイは死んだ。しかし、エンタープライズを作った多くの民間組
    織の指導者たちはフィリピンの地中に多くの戦争金が残っており、
    サンティーの世界中の銀行口座は手つかずのままだということを知
    っていた。
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    彼らは地中から、もしくは銀行から金を回収できるかどうかを確認
    しようと決めた。どこをさがすべきか正確にはわからないので、ジ
    ョン・バーチ・ソサエティは彼らにロバート・カーティスに接近し
    て、過去のことは本当に過去のことなのか確認するようにせかせた。
    (訳注、マルコス政権の崩壊は我々リアルタイムで見ていた。今か
    ら思えば民主化運動と言うのはこのような理由で行うのかと言う事
    に驚く。そして、今でもその手法は世界のあらゆるところで実施さ
    れている。きっと、そんな程度なのだろう。まさに、びっくりだ。
    レーガンのレインボーダラーも初耳だ。もし本当なら暗殺されかけ
    たのもうなづけるし、成功していたら大変に良かったのに。)
    • え 
    •  
    •  
    •  
  •  🍵